HOME

作成・橋本努

ニーチェ『善悪の彼岸/道徳の系譜』ちくま文庫[1887]

 

 

・ニーチェ(1844-1900):牧師の息子。ボン大学とライプツィヒ大学で古典文献学を学び、25歳の若さでバーゼル大学教授となる。早くからヴァーグナーに心酔してバイロイト祝祭劇場のための運動に参加。しかし1876年にヴァーグナーと決裂し、その3年後(35歳)には大学を辞して、漂白生活を送る。39歳から41歳のあいだに(1883-1885年)主著『ツァウトゥストラはこう言った』を著し、続いて『善悪の彼岸』(1886)『道徳の系譜』(1887)を著す。

 

『善悪の彼岸』

・【畜群による社会の水平化/力強い成長】「この誤って〈自由精神の人〉と呼ばれている連中は、簡単に言えば、水平化する者の部類なのだ。――デモクラシー趣味とその〈近代的理念〉というやつの、能弁で筆達者な奴隷にほかならない。そろいもそろって孤独をしらぬ人間、おのれの孤独をもたぬ人間、遅鈍で正直ものの若造たちである。……彼らが全力をあげて手に入れようと望んでいるのは、あの畜群の一般的な〈緑の牧場の幸福〉、すべての人のために生活の保証、平安、快適、安楽を与えるというあの幸福である。彼らがたっぷり唄ってきかせる歌と教義といえば、〈権利の平等〉と〈すべて悩める者らにたいする同情〉という二つである。――そして彼らにあっては、苦悩そのものが、除去されなければならないものと考えられる。だが逆の見地に立つわれわれ、これまで〈人間〉という植物がどこでどのようにして最も力強く成長したかという問題に眼と良心とを開いているわれわれは、こう考える――成長というものはいかなるときでも、それとは逆な条件のもとにおこなわれた。そのためには、人間の情況の危険が恐るべきものにまで増大するということが、そして人間の独創力と偽装力(彼の〈精神〉――)が永いあいだの圧迫と強制のもとで巧緻となり大胆不敵となるということが、かくて人間の生の意志が無制約な権力意志にまで高まるということが、なければならなかったのだ。――またわれわれはこうも考える、冷酷、強圧、奴隷状態、路上や心中に潜伏する危険、隠遁、ストア主義、あるゆる種類の誘惑術や悪魔的所業、また人間におけるあらゆる邪悪なもの・恐るべきもの・暴虐なもの・猛獣的なものと蛇のように陰険なものなどは、それと反対なものと同じくらい〈人間〉という種族の向上に役立っているのだ。」(84-85)

・【功利主義に抗して苦悩を求める】「快楽主義であれ、厭厭主義(ペシミズム)であれ、功利主義であれ、幸福主義であれ、――およそ快と苦によって、すなわち随伴的状態や副次的なものによって事物の勝ちを測るこれら一切の思考法は、前景だけにとらわれる素朴な思考法であって、形成する力と芸術家的良心を自覚するほどの者ならば、嘲笑や同情を持って見下すしかない代物である。」(232)[そこでは]人間がいかに小さくなりつつあるか、きみたちが人間をいかに小さくしつつあるかを、われわれは見る!……われわれはむしろ、かつてなかったほどに苦悩を高く酷くしようと思うのだ!君たちのねがう無事息災、――それは決してわれわれの目標ではなく、それはわれわれには終末と思われるのだ!それは人間をたちまち笑うべきものの軽蔑すべきものとする状態であ[]!……苦悩の、大いなる苦悩の鍛錬、――この鍛錬だけがこれまで人間の高昇すべてを創造したという事実を、君たちは知らないのか?魂の力強さを養い育てる不幸のなかの魂のあの緊張、偉大な破滅を眼前に見るときの魂の戦慄、不幸を担い、堪え、解釈し、利用しつくすときの魂の独創性と勇猛さ、そしてまたかつて魂に贈られた深さ・秘密・仮面・精神・狡智・偉大さのすべて、――これらはみな、苦悩を通じて、大いなる苦悩の鍛錬を通じて魂に贈られたものではないか?人間のなかでは被造者と創造者が一体となっている。」(233)

 

 

『道徳の系譜』

序文

・「われわれはわれわれにとって必然的にどこまでも見知らぬ者なのだ、われわれはおのれを理解しない、われわれはおのれを取り違えざるをえない。」(360)

・「人間はいかなる条件のもとに善悪というあの価値判断を考えだしたか?しかしこれら価値判断それ自体はいかなる価値を有するか?」(363)

 

 

第一論文 「善(gut)と悪(böse)」「よい(優良)(gut)とわるい(劣悪)(schlecht)」

・「[〈よい〉という]判断のおこりは、〈よい人〉たち自身にあった。すなわち高貴な人たち、強力な者たち、高位の者たち、高邁な者たち自身にあった。こうした者たちが、あらゆる低級な者・下劣な者・野卑な者・賤民的な者に対比して、自己自身および自己の行為を〈よい〉と感じ〈よい〉と評価する、つまり第一級のものと感じ、そう評価する。この距離のパトスからしてはじめて彼らは、価値を創造し価値の名を刻印する権利を自らに獲得したのである。功利など彼らの眼中にはない!まさにこのように順位を定め、順位を分明ならしめる最高の価値判断が激烈にほとばしりでるところにあっては、功利の観点はおよそまったく無縁であり、ふさわしからぬものである。……高貴と距離のパトス、すなわち低級な種族つまり〈下層者〉にたいする高級な支配者種族の持続的・優越的な全体感情と根本感情、――これこそが〈よい〉(優良)と〈わるい〉(劣悪)との対立の起源なのである。」(377-378)

・これに対して、「利己的」な行為よりも「非利己的」な行為を「良心」に照らして道徳的であるとみなす態度は、貴族的な価値判断の没落とともに、人間の畜群本能が支配的となる場合に生じる。(379)

・【僧侶階級と騎士階級の対立】「騎士的・貴族的な価値判断が前提とするものは、力強い肉体、今を盛りの豊かな溢れたぎるばかりの健康、加えうるにそれを保持するうえに必要なものごと、すなわち戦争、冒険、狩猟、舞踏、闘技、さらにはおよそ強い、自由な快活な行動を含む一切のものごとがそれである。」(387)これに対して「僧侶的民族」であるユダヤ人は、「諸価値の徹底的な価値転換」によって「精神的な復讐」を遂げる。「ユダヤ人[イエス・キリスト]こそは、……貴族的な価値の方程式(善い=高貴な=強力な=美しい=幸福な=神に愛される)にたいする逆転のこころみをあえてし」た。すなわち「『惨めな者のみが善い者である。貧しい者、力のない者、賤しい者のみが善い者である。悩める者、乏しい者、病める者、醜い者のみがひとり敬神な者、神に帰依する者であって、彼らの身にのみ浄福がある。――これに反し、おまえら高貴にして権勢ある者ども、おまえらこそは永遠に悪い者、残酷な者、淫いつな者、貪欲な者、神に背く者である。おまえらこそはまた永遠に救われない者、呪われた者、堕地獄の者であるだろう!』」(388)

・【ルサンチマン(怨恨Ressentment)】「道徳における[僧侶階級の]奴隷一揆は、ルサンチマンそのものが創造的となり、価値を生みだすようになったときにはじめて起こる。……すべたの貴族道徳は自己自身に対する勝ち誇れる肯定(ja sagen)から生まれでるのに反し、奴隷道徳は初めからして〈外のもの〉・〈他のもの〉・〈自己ならぬもの〉に対して否という。つまりこの否定こそが、そりの創造行為なのだ。」(393)「ルサンチマンの人間は、率直でもなければ質朴でもなく、自己自身にたいして正直でも純直でもない。彼の魂は横目[やぶにらみ]を使う。彼の精神は隠れ家を、間道を、裏口を好む。すべて隠密なものが彼には自分の世界、自分の安全地帯、自分の慰安所として好ましく思われる。彼は沈黙すること、忘れないこと、待つこと、ひとまず自分を貶し卑下することを心得ている。こうしたルサンチマンの人間どもの種族は、いつには必ず、どんな貴族的人間の種族よりも怜悧[ずるがしこく]になる。彼らは、怜悧というものを、……第一級の生存条件たるものとして、尊重するようになる。」(395-396)

・【弱者の道徳観】[抑圧された者たちは、……「『……善人というのは、およそ暴圧しない者、誰をも傷つけない者、攻撃しない者、報復しない者、復讐を神にまかせる者、われわれのように隠れて密かに生きる者、あらゆる悪から身を避け、総じて人生に求むるところ少ない者、そしてわれわれと同じように忍耐強い者、謙虚な者、公正な者のことだ』」と言って自らを慰めるが、――これは……もともと、『われわれ弱者はどうせ弱いんだ。われわれは自分の力の及ばないことは何ひとつしないのが、われわれの善いところなんだ』というだけのことにすぎない。](406)

 

 

第二論文 〈負い目〉〈良心の疚しさ〉およびその類のことども

・【ルサンチマンから生まれた平等主義/最高の生物学的見地】「……いかなる時代にも攻撃的な人間は、より強い、より勇敢な、より高貴な人間として、より自由な眼とより清明な良心をも自分の見方につけてきたのだ。反対に、……そもそも〈良心の疚しさ〉なるものを発明したかどで良心の呵責に悩んでいるものは誰か、――いうまでもなくそれはルサンチマンの人間だ!……地上の法が提示してくれるものは、……まさにあの反動的感情に対する闘争であり、能動的で攻撃的な権力の側からするこの感情との戦いである。……正義が行なわれ正義が維持されるところではどこにおいても、より強い権力が下位の劣弱者らに対して、そのルサンチマンの気違いじみた狂躁を取り鎮めるための手段を講ずるのが見られる。」「最高の生物学的見地からみれば、法律状態というものは、権力をめざす本来の生意志を部分的に制約するものとして、またこの生意志の全体的目的に従属する個別的手段として、要すればより大いなる権力単位を創造するための手段として、つねにただ例外的状態でしかありえないということである。法秩序というものが、権力複合体間の闘争の手段としてではなしに、およそ闘争なるものすべてに対抗する手段として、至上かつ普遍的なものと考えられるならば、それは『おのおのの意志はそれぞれに同等なものとして扱われなければならぬ』というデューリングの共産主義者的見解の雛型に倣ったものというべく、一個の生に敵対的な原理にほかならず、人間を破壊し解体するもの、人間の未来を暗殺する企み、疲労の一徴候、虚無への間道であるだろう。」(451)

・【「強力な人間たちの繁栄」としての進歩】「現実の進歩はつねにより大なる権力への意志と進行という形であらわれ、そしてつねにおびただしい数の弱小な権力を犠牲にすることによって遂行されるということである。それどころか、ある〈進歩〉の大きさは、そのために犠牲にされねばならなかったものすべての量のいかんによって測定される。集団としての人類が、個々のすぐれて強力な人間種の繁栄のために擬制にされるということ、これこそが進歩というものであろう。」(453-454)→これに対して近代における人々の民主主義的体質は、支配者嫌悪主義に陥っている。

 

 

第三論文 禁欲主義的理想は何を意味するか

・【禁欲主義の意味】「禁欲主義的理想はなにを意味するか?――芸術化にあっては、それは何ものをも意味しないか、もしくはあまりに多種多様のものを意味する。哲学者や学者にあっては、高い精神性のためのもっとも好適な予備条件を嗅ぎつける嗅覚か本能のようなものを意味する。女性にあっては、せいぜい、もっと誘惑するための愛嬌、美しい肉体に風情を添えるちょっとした婀娜(あだ)っぽさ[洗練されて粋ななまめかしさ]、可愛らしい肥り肉(じし)の動物の天使めかすさまを意味する。生理的な廃疾者や変調者(死すべき人間の大多数)にあっては、この世界に適応するには自分らは〈善良でありすぎる〉と見せかけようとする一つの試みを、放埓の聖なる一形式を、慢性の苦痛や倦怠と闘うための彼らの主要な武器を意味する。僧侶にあっては、本来の僧侶的信仰を、彼らの権力の最上の手段を、また権力に対する〈至上の〉裁可を意味する。……がしかし、およそ禁欲主義的理想が人間にとってかくも多くを意味していたということ自体のうちには、人間の意志の原事実が、この意志における〈空虚への恐怖〉が、はっきりとあらわれている。人間の意志は一つの目標を必要とする。――この意志は、何も欲しないよりは、何も欲しないよりは、いっそむしろ虚無を欲する。――私の言うことがおわかりか?・・・おわかりになったろうか?『全然ほかりません!先生!』――では、最初からまたはじめるとしよう。」(485)

・【生の否定としての禁欲主義】「そもそも禁欲主義的な生というのは、一つの自己矛盾である。そこには比類のないルサンチマンが支配しているが、これは生のある部分を出はなく生そのものを、生の最深かつ最強のもっとも基底的な諸条件を制圧しようとする飽くなき本能と権力意志とルサンチマンである。ここでは、力の源泉を閉塞するために力を利用するという試みがなされるのである。ここでは、生理的な発達そのものにたいし、とくにその表現や美や悦びにたいして、嫉妬ぶかい陰険な眼差しがそそがれる。その反対にでき損ないや萎靡[衰えて弱ること]や、苦痛や、不幸や、醜悪なものや、自恣的な毀傷や、自己滅却や、自己犠牲にたいしてはある悦楽が感じられもし、また求められもする。これらのことはすべて極度に逆説的である。ここにみられるのは、おのれ自身を分裂せしめようと欲する一つの分裂性であるが、この分裂性はその苦悩のなかで自分自身を享楽するばかりでなく、それ自身の前提である生理的生活力の減退するに応じて、いよいよ自信を増し勝ち誇るようになりさえもする。」(518)

・【自己嫌悪家の野心】「人間の大なる危険は病者であって、悪人でもなければ、〈猛獣〉でもない。元からの破綻者、打ちのめされた者、打ち挫かれた者、――これらもっとも弱き者たちこそは、もっともはなはだしく人間の生の土台を掘り崩してこれを危殆に陥らしめ、生や人間やわれわれ自身にたいするわれわれの信頼に危険きわまる毒を注入し、これを疑問にさらすものである。……[弱き者たちの深い悲哀を感染せしめるあの陰鬱な]眼つきはこう嘆息する、『私が何なりと別の人間であったらよかったになあ!だがもう希望はない。私はどこまでも私だ。どうしたら私はこの私自身から逃れられるだろうか?とにかく――私は自分が厭になった!』・・・自己侮蔑のこうした土壌に、それこそ本物の沼沢地に、あらゆる雑草、あらゆる毒草が生い茂る。……かれらはいったい何を望んでいるのか?せめてなりと正義、愛、知恵、優越をひけらかすこと――これこそが、これら〈最下等者〉どもの、これら〈病者〉どもの野心なのだ!こういう野心はどんなに人を巧妙にすることか!……『われわれだけが善人だ、義人だ、われわれだけが〈善意の人間〉だ』、と彼らは称する。」(525-526)

・【僧侶によるルサンチマンの方向転換】「僧侶とはルサンチマンの方向転換者である。」(532)「『私が不快なのは、誰かのせいにちがいない』――こういうふうに推論するのが、およそ病弱者のすべてにつきもののやりまえである。……ところが彼の牧者である禁欲主義的僧侶は、彼に向かって言う、『そのとおりだ、私の羊よ!それは誰かのせいにちがいないのだ。が、この誰かというのは、じつはお前自身なのだ。それはただお前だけのせいなのだ、――お前がこうなっているのに責めがあるのはお前自身だけだ!』」(533)→禁欲的僧侶は人々の情念を治療するという関心から、「病者どもをある程度まで無害なものとすること、不治の者どもを自滅させること、病症の比較的軽い者どもを厳しく自己自身へと帰向するようにさせて、彼らのルサンチマンをば逆方向へと転換させること、……かくして一切の苦悩者の悪しき本能を自己訓練、自己監視、自己克服のために利用しつくすことであった。」(534)

 

・【宗教による治療】僧侶が治療しうるものは、苦悩者の不快。キリスト教は、こよなく霊妙な慰藉手段の一大宝庫である。その中にはじつに沢山の清涼剤・鎮静剤・麻酔剤が山と積まれている。(537)

(1)【不快感との闘い】「まず第一に、……不快に打ち勝つ手段として、生活感情一般を最低点まで引き下げるということがなされる。できれば、およそいかなる意欲、いかなる願望をも持たないようにすること。……愛さず、憎まず、心動かさず、富まず、働かず、乞食すること。……この結果は、心理的・道徳的にいうと、〈脱我〉また〈聖化〉となる。これを生理学的にいうと〈睡眠〉」である。(539)「催眠的な虚無感情、至深の眠りの安息、つまりは憂苦滅尽──これこそ、苦悩者や全くの失意者どもには、まさに最高の善、価値の中の価値とみられるべきものであり、これは彼らによって積極的なものとして評価され、積極的なものそのものとして感じられねばならぬものなのだ。」(542-3)

(2)【機械的活動】:沈鬱状態に対する別の手軽な治療法。生存の苦悩を軽減する。今日では「勤労の祝福」と称している。「絶対的な規則正しさ、几帳面な無心の服従、千篇一律な生活ぶり、時間の無駄な使い方、〈非人格性〉や自己忘失や〈自己滅却〉への一種の許可」(543)。こうしたものを禁欲主義的僧侶は巧みにもちいた。

(3)【小さな喜び(隣人愛)】:沈鬱と闘うときのもっとさらに貴重な方策は、小さな喜びを処方することである。人を喜ばせること、例えば、慈善、施与、慰安、援助、励まし、力づけ、賞揚、顕彰など。「禁欲主義的僧侶は〈隣人愛〉を処方することによって、……もっとも生肯定的な最強の衝動──すなわち権力への意志を処方する。」(544)

(4)【畜群生活という処方】:ローマ世界におけるキリスト教の創始期のころ、社会の最下層に発生した相互扶助のための結社が発生した。そこでは、小さな喜び、相互慈恵という沈鬱退治の主薬が意識的に培養された。これは一大発見事である。(544-5)「畜群生活は、沈鬱との闘いにおける一つの決定的な前進であり勝利である。……すべての病者、病弱者は、重苦しい不快や虚弱感をふるい落としたいという願いから、本能的に畜群組織を求める。……その畜群たることを欲したのは虚弱本能であり、それを組織化したのは僧侶の才慮である。」(545)

(5)【群れ=共同生活の喚起】「強者らは必然的に互いに分離しようと努めるのに、弱者らは必然的に寄り合おうと努める。……弱者が連合するのは、ほかならぬこの連合そのものに愉快を覚えるからなのだ。」(545)

・【治療の効能としての善良化】:善良化とは、飼い慣らす、弱くする、意気地なくする、繊細にする、柔弱にする、去勢する、などを意味する。結局は人間を病気にしている。

 

・【科学と芸術】「科学はあらゆる点でまず一つの価値理想、一つの価値創造的な権力を必要としており、この権力に仕えることによってはじめて科学は自己自身を信ずることができるのであって、──科学自体は決して価値創造的なものではないのだ。科学の禁欲主義的理想に対する関係は、それ自体としては決してまだ敵対的なものではない。……科学は、あの理想の外面的な要素を否定することによって、それの内なる生命を再び自由ならしめる。科学と禁欲主義的理想、この二つのものは、……真理の過大評価の上になり立っている。」(570-571)「芸術こそは、そこにおいてはまさに虚偽が聖化され、欺瞞への意志が良心の疚しさなしに働きうるがゆえに、科学よりもはるかに根本的に禁欲主義的理想に対立するものである。……プラトン対ホメロス、これこそは完全な、真の敵対関係である。」(571)

・【虚無を意欲する人間】「が、それにもかかわらず──人間はそれによって救われた。人間は一つの意味をもつに至った。……今や人間は何かを意欲することができるようになった、──何処へむかって、何のために、何をもって意欲したかは、さし当たりどうでもよいことだ。要するに、意志そのものが救われたのである。……人間的なものに対するこの憎悪、それにもまして動物的なものに対する、さらにはまた物質的なものにたいするこの憎悪、官能に対する、また理性そのものに対するこの嫌悪、幸福と美とに対するこの恐怖、あらゆる仮象から、変転から、生成から、死から、願望から、欲望そのものからさえも逃れようとするこの欲望──これらすべては、あえてこれをはっきり規定するなら、虚無への意志であり、生に対する嫌厭(けんえん)であり、生の最も基本的な諸前提に対する反逆である。……人間は何も欲しないよりは、いっそむしろ虚無を欲する。」(583-584)